2014年1月17日金曜日

1931 矢部八重吉「フロイド先生會見記」

一九三〇年三月、ベルリンの町を郊外へとひた走る車にひとりの日本人が乗っていた。自らの勤める鉄道省より資金を与えられ、これから二ヶ月の欧州滞在を行おうとするこの心理学者は、いままさにその皮切りに、国際精神分析協会長であるマックス・アイティンゴンを朝駆けで訪ねるところであった。首尾よく面会を果たして後、ロンドンに渡り、エドワード・グローバーに分析を受けた彼は、二ヶ月の養成の末に、晴れて日本人で最初のIPA公認の精神分析家となる。

そのひと矢部八重吉は、帰国後に、この貴重な滞在の様子をまとめた。春陽堂フロイド精神分析学全集の第五巻、彼の翻訳なる『性欲論・禁制論』の巻末に付された「フロイド先生會見記」にて公表されている。日本人にとって初めてといってよい欧州精神分析界隈との出会いが一体どのようなものであったのか。その点だけでも興味のつきないルポルタージュであるが、さらには、せいぜい往復書簡やらでしか垣間見られない、当時のロンドン・ベルリンの分析家たちの日常の様子が、よそものの視点から描かれているということにもかなり重要な資料価値が認められよう。例えば以下のような観察は決してアーネスト・ジョーンズの有名なフロイト伝などからは知りえない類の情報を含んでいる。

「一体に分析者たちには非常に喫煙家が多いやうである。冬の部屋でも時々窓を開けなければならなくなるほど、彼等の会合に於いては室内は煙幕に閉される。これ或いは彼等の御大フロイドが終始シガーを手に離さない愛煙家であるため、それに同一化作用を起しているかも知れないのである。ジョンズ博士の如き、實にフロイドの生写しである。その態度、物腰、接客の様子などすべてフロイドに似ている」(十一頁)。

他にも、フロイトのベルリンでの定宿がエルンスト・ジンメルの大邸宅であったこととか、矢部がメラニー・クラインに二人きりのお茶会に誘われていたり、アンナ・フロイトに冗談を飛ばしていたりしてなんだか楽しそうだとか、 精神分析ファンにとっては飽きない読み物であることは間違いない。

しかしやはりもう少し学問的な関心から、さらに二点、興味深い点を挙げておこう。第一の点。矢部はこの滞在の際に、『出産外傷』を出版したばかりのオットー・ランクに折り入って会いたいと望みパリまで行っている。『出産外傷』の出版をめぐって協会内にひと波乱起きていることもおそらく理解してのことだから、よっぽどのことであろうと察せられるが、矢部本人はその理由を「彼の『出産の外傷』が我々日本人にとつて特に興味の深い実例なり、考察なりを提供している事を思うて」(三頁)、と説明している。あいにくこの出会いは実現しなかった。しかし、そこには精神分析の受容という問題をめぐって、もしかすると重要な分岐があったかもしれないと想像してみることもできよう。『出産外傷』といえば、ようやく最近邦訳が出たところである。実に八十年分の出会い損ねだ。

第二の点は『快不快原則を越えて』(現在の題名では『快原理の彼岸』)にまつわる。この書の出版が日本で真っ先に出た理由として矢部がフロイトに語っている箇所であるが、いわく、「この書の中に説いてある生死同一説、死の本能即ち生の本能説はそのまま仏教の思想であって、仏教が相当に国民思想を支配している日本としては、精神分析への理解が却ってこの書に依って 容易になるであろうことを考えたからだと」(一四頁)。このあたりの話は、『フロイト最後の日記』にもちらりと出てくる話だが、ここでは改めて、当時の日本の大衆社会における仏教思想の影響力というものに思いを馳せておきたい。ほんの八十年前のことなのに現在からは想像のつきにくいところではあるが、この辺りの理解を深めねば、日本の精神分析史も捉え損なうことになろう。

最後に、総じて矢部について言うと、近年の研究では頻繁に言及されるようになってはいるが、しかし未だその実像に迫るといえるほどの研究はない。よく取り沙汰されるのは、丸井清泰との翻訳権をめぐるいざこざ、そしてその結果として、戦前日本には東京と仙台の二つに国際精神分析協会支部が設けられた件であろう。しかしいろいろ見ていると、どうも話を東京に限ったところでも、最初期の「日本精神分析運動」はそう単純に動いてはなさそうに見える。このあたり、またそのうち追いかけてみることにしたい。

矢部八重吉「フロイド先生会見記」『フロイド精神分析学全集:性欲論・禁制論』春陽堂、1931.

2013年6月21日金曜日

1908 カール・アブラハム「神経症の心理学における親族婚の位置づけ」

1908年11月9日――スイス、ブルクヘルツリから居を移したベルリンで新たに開業したばかりのカール・アブラハムは、『ベルリン精神医学・神経疾患協会』の会合で初の発表を行う。前年にブルクヘルツリの同僚ブロイラー、ユングらとともにウィーンのフロイトとの交流を開始し、いまや精神分析の熱心な支持者となっていた彼は、ここベルリンで、独り、「精神分析運動」ドイツ前線の戦いを始めたのだ。並み居るオールドスクールの神経学者たちの前でフロイト学説を論じたこの日の発表は、まさしくその嚆矢であった。そしてそれが引き出したのは、ジョーンズの伝記からも知られているように、やがてボイコットの呼びかけにまで長じるような激しい拒絶と憤激であった。

(――と、精神分析運動“正史”にとって1908年11月9日はそのような日付であろう。フロイト以来、精神分析の歴史とは「運動史」であり、「戦いの歴史」である。そこでは「支配的な精神医学のうちで不遇を強いられてきたフロイトとその精神分析」が、そして「それに真っ向より挑み、(少なくともE.ジョーンズの生きた時代くらいまでは)いくらかの勝利と呼べる成果を手にした精神分析」が描かれてきた。確かに、そこにはいくらかの「現実」が含まれている――といっても、記述されたとおりの事実がそこにあるということでは必ずしもない。むしろ、精神分析が「運動体」であるということ、そして「運動体」であるという事実に内在的なある種の戦略性の問題から精神分析を切り離すことはできないということである。学問的情熱、治療者としての使命、そうしたこととは別に、フロイトの弟子たちを駆り立てた何か、それは精神分析(とその歴史)のもっとも重要な要素のひとつと思われる。)

半ば伝説のうちに組み込まれてきたこの発表は、実のところ、どのようなものだったのか。ここではくだんのアブラハムの発表と、ベルリンの神経学者たちによるそれへの反応を、1909年の『ベルリン臨床週報Berliner klinische Wochenschrift』に掲載された「報告」(S. 272-3)を手がかりに見てみることとする。

アブラハムの発表の主題は、この「報告」が知らせるところによれば、「親族婚と神経症」である。アブラハムはこの発表を、その後、「神経症の心理学における親族婚の位置づけ」という題で、ウィーンとブルクヘルツリの共同編集で刊行された雑誌『精神分析・精神病理研究年報Jahrbuch für psychoanalytische und psychopathologische Forschungen』の第一号(1909)に発表している。「報告」の端的なまとめによれば、問題は、「神経病質家系では固有の精神‐性的性向のために近親結婚Inzuchtが生じる」という命題の検討である。結婚という制度にまつわる実利的根拠や、人種・階級といった社会的条件はいったん宙吊りにしたうえで、アブラハムは、上記命題を、フロイトの「幼児性欲」理論から説明しようと試みる。 すなわち――神経病質的人物の幼年期においては、異性の家族成員(両親のどちらか、あるいは異性の兄弟)に対する異常に強い性的転移が存在する。それは思春期においても失われず、 他家の異性への転移を困難にする。一方、家族成員への好意自体は抑圧されねばならないため、神経病質者は未婚のままに留まるか、血縁者(姪やいとこなど)と結婚することになる。 最後にアブラハムは、このような強いリビドー固着が他の様々な病的状態においても表現されること、したがって上記のような親族婚は、他の神経病質的特徴を示す現象と並べて検討することで見えてくることを述べて発表を終えている。

この発表についての議論は、同じ会合のほかの報告者のまとめの分量と比較しても、とりわけ白熱したことが分かる。最初に口火を切ったのは、当日の議長オッペンハイムであった。ベルリン神経学の大物であり、「外傷神経症」概念の提唱者として名高い彼は、カール・アブラハムとは縁戚関係にあり、ベルリンに独りでやってきたアブラハムを私的にも世話していた。日ごろのやり取りの中でアブラハムとオッペンハイムは既に「親族婚」の問題についてのやり取りを行っていたようで、アブラハムは発表の中で自説の証人としてオッペンハイムを引き合いにだしていたのだが、これに対し、オッペンハイムはまずなによりそれを拒否する。すなわち、「フロイト理論の信奉者である」かのような誤解を断固退けたいと。とはいえ、幼年期の異常な愛着が親族婚においては問題である、という観察そのものが気に入らないわけではない。オッペンハイムは端的に、この愛情が「性的である」という解釈を拒否するのである。この立場の違いについて、アブラハムはオッペンハイムへの応答のなかで認め、1909年の論文では、それにひとつの注を捧げている(Jahrbuch, 1909, S. 111)。

この日のコメンテーターのうち、もっともつれないのはツィーエンであろう。彼は、フロイト理論は端的に誤りであるとし、さらには「ナンセンス」であると言い切る。また他の発言者(プラッツ)も、フロイト理論が唱える、「幼年期の精神生活におけるセクシュアリティの大きな意義」を問題視し、さらに、フロイト学派のひとびとが彼らの学説を詩人や童話に応用する乱暴な仕方を批判する(ここでは、アブラハムによるF.C.マイヤーの扱いと並び、ブルクヘルツリの助手のひとりリクリンの民間童話解釈が槍玉に挙げられる)。

以上のような反応は、我々が思い描いてきたアンチ精神分析のイメージから大きく外れてはいまい。議論からは、精神分析に対する抵抗の重要な論点のひとつが「幼児性欲」であったことが改めて分かる。さらにここで注目しておきたいのは、アブラハムのこの発表自体も含め、精神分析理論がまさに拡大しようとするときに生じる様々な「応用」の試みに対して、警戒が張られているということである。「汎性欲主義」という批判は、フロイトの理論の中身に向けられたものであると同時に、「性」によりあらゆるものを説明しようと実際に動きだした運動の流れに対するものでもあっただろう。ここで精神分析の「応用」熱という問いをたてるべきかもしれない。それは、一方で運動の動力源でもあろうが、他方で、その貪欲さのあまり、精神分析を荒唐無稽に落とし込んでしまいかねない病とも思える。

さて、精神分析批判に関することとは別に、この発表について興味深いことのひとつは、「親族婚」というテーマそれ自体であろう。アブラハムと同様にこの問題に関心を寄せるオッペンハイムは、親族婚では、たいてい神経病質か精神病質が問題なのだと断言している。さらに彼は、親族婚において生まれる子供に生じるかもしれない害について心配を表明し、親族婚に関する相談を受けるようなときには避妊を勧めていると述べている。また別のコメンテーター(ロートマン)は、親族婚の現象とユダヤ的要素、ただし遺伝的・民族的というよりは、かつての時代に小さな村落に追い込まれたという歴史的・社会的条件との関連について質問している。このテーマが精神医学の会合のテーマとなること自体に、われわれは、家族的親密性についての当時の理解の一端を垣間見ることができそうだ。

"Berliner Gesellscaft für Psychiatrie und Nervenkrankheiten : Sitzung vom 9 November 1908", Berliner klinische Wochenschrift, 1909, S. 272-3.
"Die Stellung der Verwandtenehe in die Psychologie des Neurose", Jahrbuch für psychoanalytische und psychopathologische Forschungen, 1909, S. 110-118.



2013年5月17日金曜日

1883 ピエール・ジャネ『所有権の基礎』- P. Janet, le fondement du droit de prioriété

 フロイトと並び精神療法の祖として称されるピエール・ジャネが、そのキャリアを医師ではなく、哲学者として開始したというこは知られている。1879年、フランス高等師範学校に入学(同世代にはエミール・デュルケーム、アンリ・ベルクソンがいる)、その後82年に哲学教授試験に合格すると、彼はリセの教師としてルアーブルに赴任した。この土地で彼は、魅力的なヒステリー患者レオニーと、彼女に施されていた催眠療法とに出会い、こうして19世紀末のあの賑やかしい“無意識の発見”の構築現場へ足を踏み入れていくこととなる。
 ところで、このようなよく知られた精神療法史のひとつの歩みが開始される少し前に、ジャネがルアーブルで行った最初の学問的仕事がある。1883年2月10日土曜日、フランス教育連盟Ligue française de l'enseignementの会員の前で為されたと思しき彼の講演は、その主題として「所有権の基礎」を選んでいる。心理学者としてのジャネというイメージから振り返れば、少し思いがけない主題でもあろう。当時、パリからやってきた新米哲学教師に対して、このような主題を語ることがまず求められたということだろうか。それとも、ピエールを学問の道に引き入れたクーザン派の哲学者、叔父ポール・ジャネの影響をそこに認めるべきだろうか。いろいろと思いをめぐらせてみることができるが、いずれにせよ、そこにはジャネが初めて人前で語った彼自身の思想があるに違いない。

 では彼の思う「所有権の基礎」とはどのようなものか、簡単に紹介したい。

 彼はまず所有権の歴史的発展について述べている。第一に、所有権というものが存在しない原始的段階がある。第二の司牧的段階において所有権の萌芽が芽生え、次の農業的段階にいたると共同所有権が現れる。この後に個別化の発達の段階が現れ、そこで初めて個人的所有、および相続的所有が現れるという。彼は、この所有権の歴史的発展の上に、もうひとつの発展、開墾技術の発展を重ねる。間歇的耕作から産業的耕作へと進む進歩は、土地の個人所有によって促されたとするのである。
 かくして、ジャネは歴史的展開を、「産業、公共の富、個人所有権の平行した進歩」として見る。すなわち所有権の発展とは、何よりも人間の労働の必然性と関連した事実なのである。例えば彼がジャワ島やロシアに残る原始共産制を引き合いに出しながら述べるように、土地を所有しないことは、その不便さによって生産性自体を阻害し、ついにはこの共産制を「窮乏の共同体」にしてしまうものなのだ(p. 9)。
 一方でジャネは、私的所有を、もはや共産制を支えることのできるような共同体が不可能となった近代社会の必然とも捉えている。かつての共同体的、家族的な連帯のうちでは、個々人の運命は固定されており、他人ともそれほど異ならなかった。しかし、今では個人は「自分のコップ」で水を飲みたがる。そのような時代にはエゴイズムが共産体制の邪魔をするだろう。「 『俺が何もしなくても社会がたいして損をするじゃなし、ほんの千分の一の損にすぎまい。ちっぽけな悪malだが、俺にとってはたいした得bienだ』。残念ながら、それは社会にとって大きな悪である。というのも、誰しもが同じ理屈で動き、それぞれが他人に寄り掛かり、全体のおこぼれに預かろうとすることになれば、そのときこの全体はもはや存在しないのだから」(p. 10.)。こうした不具合を解消しようと労働を強制してみても無駄で、イニシアチブが欠如している限りは進歩も見込めない、とジャネは言う。ところが反対に、ジャネによれば、私的所有は労働、自由、進歩をもたらす。所有権こそ共同のものでなくとも、所有権の良い結果は共同である。それゆえ「真の政治は、各人のエゴイズムを万人の利益に供させねばならない」(p. 12)。
 かくしてジャネは、まずは事実確認として、個人主義化した社会において、できるだけ多くの人間を養うために所有権が必要不可欠であると主張する。それは「人間生命の条件」、「社会的必要性」 、「社会的事実」である(p. 14-5)。

 しかし「事実問題」と「権利問題」の区分に基づきながら、ジャネは、新たな問い、所有権は公正かという問いを立てる。所有権を基礎付けることは、いわゆる早い者勝ちということでしかない。この占有は「力」と「運」の帰結でしかない。所有の「権利」が、個人があるものを享受したり、罰を受けたりすることに関しての理解可能なつながりであるとすれば、まさしく「運」とは、そのようなつながりが欠けていることではないのか、とジャネは言う。そこには確かに矛盾がある。「運」によって儲けたひとをいまさら責めることはできない。かといって納得することもできない。しかし個人間で戦争をおっぱじめるというのでなければ、ひとはこの運の不平等を泣く泣く受け入れるほかない。さらには、財産相続のように自分の労働の対価によらぬ仕方で儲けることがある一方で、自分の責任ではない病の遺伝が赤子に降りかかるということすらある。「運は、容易に消し去ることのできるような敵ではない」(p. 21)。
 だがジャネにとって当時の社会は、この「運」の役割をそれなりに相殺している。そこに彼は二つの要因を認めている。ひとつは「知性」、つまり科学の進歩であり、もうひとつが「制度」である。「運が正義の敵ならば、科学は運の敵である」とジャネは言う(p. 24)。ここで興味深いことは、例としてジャネが保険を引き合いに出していることであろう。つまりどのような事故にたまたま襲われたとしても、今日それは保険によって返済され、不幸自体は最小限で済むというのだ。かくして「人間の知性は、不公正な窮乏の数を制限し、条件の平等を増大させようとする」(p. 24)。それに加えて「制度」によって、所有権を少数のひとびとに無際限に集中させることを防ぐことができる。ジャネはこれについて、(17)89年以来の税制や教育無料化に関する制度のことをわれわれに思い出させている。
 まとめるとジャネの見解は以下のようになろう。第一に、所有権とは、人間労働の要請に応えるための人間の発明であり、創造である。その基礎は、その有用性であり、大量生産と進歩を要求する社会成員にとってのその必要性にある。第二に、所有権はさらに良いものとすることができる。所有権そのものが正当ではなく運の要素に振り回されるとしても、将来には可能な限りこの運を消し去り、過去の運の効果さえも制限することができるだろう。最後にジャネは、ルソーの不平等起源論をひっくり返しながら、こう結論する。「自然の手から生まれた人間は、美しさ、力、知性、財産において根本的に不平等なのだ。運命は、秩序も理性もなしに、ある者をひいきし、別の者を打ち据えて楽しんでいるのだから。しかし今、知識や資源がもっと拡大するなら、たとえどれほど頻繁に一国の不幸、個人の不幸が他の全てに降りかかったとしても、また世界のうちに正義や慈善がどれほどわずかであっても、あらゆる良いことが文明へと戻ってくる」(p. 27)。

 古い共同体の時代から脱した近代人のために、知性と制度を通じて運命の足かせを取り外してやる助けをすること。ここにはジャネの科学的啓蒙主義、進歩主義的一貫性が確認できるとともに、臨床家としての彼の職業的使命の原点をも見取ることができるだろう。

 P. Janet, "le fondement du droit de prioriété", Ligue française de l’enseignement, Chateauroux
Imprimerie Typographique de Adrien Gablin, 1883